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手稲山ロバッタ塚

2006年11月05日

この、看板が見えたらドリームビーチの方向へ向かいます。



2006年11月05日

しばらくすると、手稲山口バッタ塚の看板が有りますから右に曲がって道なりに走ります。



2006年11月05日

左側にバッタ塚が見えます。



2006年11月05日

道路は舗装になっていますし、突当たった所が駐車場ですから迷う事はないと思います。



2006年11月05日




2006年11月05日




2006年11月05日

手稲山口バッタ塚の碑文より
飛蝗(ひこう) 
バッタ科の昆虫が群飛して移動するもの。広大な草原地帯で発生し、通過地域の農林作物は惨害を受ける。生息密度が低いときは群飛しないが、高密度になった世代では形態上・生理上に著しい変化が起こって群飛する。 

農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に残っている限りでは、明治13年に十勝で発生して、日高、胆振、後志、渡島、などへ広がり、同18年まで農作物などに被害を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。 

明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、当時のお金で年約5万円を支出して、飛蝗の駆除に努めました。 

当初はアメリカ、ヨーロッパ、中近東で行われた駆除方法を参考にし、捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。 

ここに見られる幅広い畝(うね)状の塚は、効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8km内外の地域で掘り集めた大量の卵のうを、不毛に近い砂地に列状に並べ、各列の上にその両側の砂を厚さ25cmほどかけて、造られたものと推定されます。当初このような畝は100条ほどありましたが、昭和42年にそれらの一部が東京拓地(株)から札幌市へ寄贈され、昭和53年8月21日に札幌市指定史跡となり、ここに保存されています。 



2006年11月05日

所々盛り上がったところに卵のうが埋められたそうです。
かなりの量ですね。
ちなみに管理人はバッタは大嫌いです。
特にお腹と筋肉質そうな足を見るとゾ〜とします。





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